2015年9月24日木曜日

現実と向き合え!『天空の蜂』

今年はなかなかいい映画を見てます。


と言っても数は少なくて、前回の『イニシエーション・ラブ』以来、久しぶりに映画館で鑑賞。
今回見てきたのは「大作」の呼び声高い『天空の蜂』。
原作は東野圭吾による同名小説で1995年(平成7年)刊行。

満足度は非常に高いです。

それにしても、前回見た『イニシエーション・ラブ』も堤幸彦監督作なんだよなぁ。



あらすじは他の批評サイト、感想ブログにいくらでもあるので、ここでは感じたことを書き連ねるにとどめます。
ただ、映画の舞台が広範囲に広がっていて、それが頻繁に切り替わるので、そこは混乱するかもしれないですね。
福井、愛知、東京

<キャスト>

まず、キャストの面で感じたことから。
存在感を発揮していたのは、今回舞台となる高速増殖原型炉「新陽」の設計技術者である三島を演じた本木雅弘。
ラスト近くの過剰な演出は不要だったかなと思うけど、全編通して緊張感のある演技で惹きつけられました。

次いで、やはり江口洋介。彼が演じたのは、元木演じる三島とは同じ会社だが、部署も専門も異なる、今回犯人に強奪された新型ヘリコプター(通称:ビッグB)の開発技術者。
原作では、人間性の部分はあまり踏み込んでは描かれていないので、原作のキャラクターに血を通わせた、という感じです。ただ、ちょっと熱い方向に偏ってるかな、という気もする。

本作はこの2人のW主演。

ある意味でキーパーソンとなる赤嶺淳子を演じたのが仲間由紀恵。なんだけど、仲間由紀恵でなくても良かったのでは?という印象を受けた。
ただ、テレビを通じて情報を得た瞬間とその直後の一瞬の揺らぎの表現は良かった。

愛知県警の高坂を演じた手塚とおる。この人をはじめて見たのは『ルーズベルト・ゲーム』だったんですが、演技の方向性としてこういう感じなのね。
不思議な演技をする人で、見た瞬間はものすごく違和感を感じるんだけど、不思議と短い時間でこちらがそれに慣れる、違和感がなくなる人。

犯人である雑賀勲を演じた綾野剛。セリフはほとんどなく、原作よりも彼が抱えている背景の描写はわかりやすくなっています。また、彼が今回の事件を引き起こすに至った理由、そして防衛庁の方でも彼を実はマークしていた理由が、数少ないセリフから明白になります。これは原作でも表現されているけど、映画のほうが分かりやすかった。

もう一人、残念な方向でキャラクターを改変されたのが、佐藤二朗演じる福井県警の今枝。コメディ担当みたいになってしまってて、それあの場面でいる?って感じは否めない。佐藤二朗は好きな俳優なので、ちょっとなー・・・って感じです。

航空自衛隊救難隊の面々は非常にかっこよかったです。


<ストーリー>


ストーリーについては、原作と映画とでは、ヘリコプターに取り残される子どもが入れ替わってます。
これ、元通りでも良かったんじゃないかなと思います。
犯人が言う
「政府に言い訳をさせたくなかったから子どもは邪魔だったのだ」
というセリフは、そのまま映画にも帰ってきている気がして仕方ない。
わざわざ湯原の子どもに切り替えたことで、”無関心な沈黙する群衆”であることの警鐘というエッジの効いたテーマが”家族愛”みたいな要素が混じりあって弱くなった印象。

原作通り、湯原の部下、山下の子どもが取り残される、で良かったなぁ。また侵入できる経路も原作をそのままなぞっていた方がしっくり来る。いくらなんでもあんなドアの鍵のかけ忘れはないだろう、と。小さな窓が開いてるのは仕方ないと思える設定なのにね。

その後のヘリコプターが自動操縦で奪われるまでのシークエンスも、ちょっとイライラが募り、ここも原作通りなら何の違和感もなく見れたと思う。

ヘリコプターが飛び立ってからは、手に汗握る緊張感を推進力に映画はどんどん進みます。
前半の大きな課題であるヘリコプターに取り残された子どもの救出については、ものすごい迫力で描かれていて、あれは高所恐怖症には辛いものがあります。それくらい迫力がすごい。

この救出作戦を考える中で、三島が湯原に投げかける「家族を守れない男に父親を名乗る資格などない」とキツく言い渡すシーンは考えさせられるものがあります。

ストーリー上の原作からの大きなアレンジというのは、後半まではあまり見られません。
後半に入るとなかなかのアレンジが見られて、大きなところでは雑賀の件と、湯原と三島の関係でしょうか。


ちょっと残念なのは、この2つともなぜわざわざアレンジしたのか、その意図がわからないこと。

雑賀はビッグBが落ちのを見届けたかったはずで、なぜ原作に沿って動かさなかったのか。重症を負ってまで逃亡した先に何を求めていたのかが描かれず、それが残念。

湯原と三島の関係も、やはり原作のような形が良かったなと思う。湯原が犯人に気づき、追い詰めるって、それはちょっとヒーロー化し過ぎかなと。


とは言え、この映画は本当におもしろい。

この映画では原発が主要なテーマであり舞台になっているわけですが、原発に対する反対も賛成もなく、どちらの立場からもメリットやデメリットを指摘している。
原発関係者が多重防護で絶対安全だと言う一方で、消防関係者が多重防護で絶対安全なら運転員を総員退避させてはどうか、というある種の矛盾を指摘させたりもする。

また「現場で勝手な判断をするな。情報はすべて東京でコントロールする」という者も現れる。

この映画も原作も一貫して伝えようとしているのは、物事に対してあまりに無関心な”沈黙する群衆”に対する問題提起。

「天空の蜂」と名乗る犯人の言葉から借りると
”我々の周りに存在している原子炉が、ひとつの顔だけを持っているわけではないことの証であろう。彼等は様々な顔を持っている。人類に対して、微笑むこともあれば、牙を剥くこともある。微笑みだけを求めるのは、傲慢である。
繰り返す。沈黙する群衆に、原子炉のことを忘れさせてはならない。常に意識させ、そして自らの道を選択させるのだ。
子供は刺されて初めて蜂の恐ろしさを知る。”

とあり、無関心であることの危機感、意識することの必要性を指摘している。
これは原発のことだけに限るものではなく、いろいろなことに言える。

だから、本編中である人物は、新陽をさも運転しているかのように見せながら停止しては、という提案が出た瞬間に、こう云う。
”国民を騙すんですね。騙すということの善悪ではなく、騙すという覚悟をここにいる全員が持っている、という確認をしたいのだ”
と。

これも同じことで、善悪ではなく、”騙す”という認識を持って取り組む覚悟を持て、と。

そして、
”本当に狂っているのは誰か。それをお前たちはいつか知ることになる”
という言葉は、3.11を超えて4年が経過した今、目の前で具体的にわかり始めている。

この映画を見た帰り道、ひとつの言葉が頭に浮かんだ。

「由らしむべし知らしむべからず」

2015年9月13日日曜日

ハロ活できないのだ~

めちゃくちゃ久しぶりに書くんですけど、そんなに書くことはない(笑)

何しろ6.11の℃-ute横アリ以降、具体的なハロ活はしてないのです。
今具体的に決まっているのは、まろ卒業公演への参加のみ。

juice=juiceが200箇所公演ということで、山陰方面にも来るんですけど、両日とも仕事でどうしても行けない。非常に残念です。